ノートと記憶だけを頼りに書いてるので一部不正確かも.
佐藤内閣(1964-1965)の話から.この内閣の課題は高度経済成長の維持.
とはいえ人口の局在化とか公害問題にもそう積極的でないにせよ取り組んでいた.
より熱心だったのは日米関係と沖縄問題.順にみていくと
戦勝国であり,経済的・理念的に上位の米国に対する junior partoner としての日本,
というのと同じ枠組みが,'60 以降の日本の成長/米国の衰退にも関わらず継続していた.
そのため調整が必要で,最初に問題が顕在化したのは日米繊維摩擦.
日本は伝統的に繊維に強く, 安価で品質の良い繊維品を輸出してて
"one-dollar blouse" などと呼ばれたりしてた.
一方米国で繊維が強かったのは南部.
折しも南部を支持基盤とする民主党が公民権法を作って南部民の支持を失いつつあり,
政治的に影の薄くなってた共和党がその取り込みを狙う.「南部戦略」といわれるもの.
経済的な interest を狙い,南部の繊維産業の保護などを掲げ,'69~ Nixon 政権になって,
ここで初めて日米の本格的経済摩擦が生じることとなる.
一方沖縄の返還も大事な問題.通常戦争で取られた土地は戦争でないと帰ってこないが,
沖縄については(一応) San Francisco の辺りで(?)日本の「潜在主権」が有ることは確認されてはいた.
アメリカはちょうどベトナム戦争,沖縄は重要な戦略拠点であった.
このためもあって交渉はかなり難しいものとなるが,ここで先ほどの繊維摩擦が出てくる.
繊維摩擦の解消と,在沖縄米軍の戦略的重要性に考慮を払うことを条件に返還,ということに.
ここで繊維摩擦は国内生産を調整することで解決をしようとし,反発に対して
当時通産省大臣の田中角栄の主導により,大規模な補償金によって国内的には解決を図った.
沖縄の基地利用については一応「核抜き,本土並み」ということに.必ずしも守られてないし,
best な結果にならなかったとはいえ,諸々の重要性と交渉の難しさも踏まえて評価すべき.
なおこの時交渉にあたった代表的な人物として若泉敬があげられる.
佐藤内閣でもう一つ重要なのは自民党内の当選回数メインの人事ルール制度化.
これによって総裁選で負けても派閥として干されたりということはなくなって,
党内が全体に仲良くなっていく.10年くらいはかかるものの,反主流派の非主流派への変容も.
またほとんど常に政権持ってるという自覚から,与党審査を通じて与党内での政策決定も機構化され始める.
佐藤氏は粘るけど1971参院選敗北,米中の突然の国交回復とドル・ショックで急速に弱体化.
その頃田中角栄がじわじわ支持者集め,最終的にはより有力と見做されてた福田赳夫を押しのけ
佐藤派をほとんど取り込み,次期首相に.
田中角栄は人心掌握能力高く,その実行力に期待されたが,短命に終わる.
景気が過熱気味であったところに日本列島改造論,さらに石油価格の高騰によってインフレが生じ,
参院選で敗北して一気に求心力低下,さらに立花隆によって資金問題を暴露されて失脚.
以降の政権は短命が続く.いずれも二年程度.
ここには,先に述べた,政策決定に自民党が関与する仕組みができていたことがひとつ影響する.
もともと中選挙区制で,基本的には連立みたいな雰囲気もある自民党.
政策決定は結局利益配分を自民党内で行うことにもつながるが,
高度経済成長から安定成長に移行するに伴ってこれを十分に行うことが難しくなり,
派閥間対立が再び尖鋭化することになった.
また,高度経済成長から安定成長に移行,ということで,今から考えれば贅沢な話だが
人々が経済に停滞感を抱いていたのもひとつの理由とされる.
さらに,納得できないかたちで政権をあとにした人々がたまってきて,足を引っ張ろうとし始めたのもあるらしい.
そのころ野党は,与党が過半数ちょいすぎくらいで推移してたから頑張れば政権とれたはずだが,
お互い仲が悪かったりして結局やる気を見せないまま.残念である.
このへんもうちょい詳しくやったけどご飯なのでここで切る.
まとめと言うよりは単なる復習のための語りなおし(即ちこれをする目的はひと通り書いた今の段階でほとんど達せられている)で,
文章も整ってないし適当である.まとめるならLaTeX とかで見やすい形にしたい.
それにしても,政治のダイナミズムが感じられるこの授業は,取ってよかったと思っている.
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