Sunday 30 December 2012

口(くち)

男は腹を立てていた.
いや,そうではない,と彼は噤んでいた口を開いたが,やはり今の彼にとって閉じた口を開くことにはそれなりの労力が必要なようで,しばらく金魚のように開けたり閉めたりしてから,やがて,

---最近では実感的に腹を立てることができなくなっているような気がする,なんだか,なにもかにもどうでもいいというような.そういう時はただ正体のわからない不快感が溜まっていく.そして悲しさが.

このような口調は僕の知っている限りでは彼らしくないといってよいものだった.普段の彼はもっとよく咀嚼されたことばを使うことを好んだし,たとえ結果的に口から出てくるものが一見噛み砕かれないままのことばであったとしても,それは彼の中では十分咀嚼されているが,僕との相互理解において,ある程度の共通認識や共通認識があるということへの共通認識は何かの儀式を伴わなくとも例えばことばを更に重ねたりあるいはそれ以前により漠然とした形での相互信頼に基づくことによって可能だという仮定のもとに,僕と彼の理解のすり合わせをいまここで細かく行う必要がないと判断したときか,あるいはいっそ,彼自身もそのことばをまだ噛みはじめていないことをわかっていて,いずれそれを進めることを前提に,そこを一旦飛ばして話を始めるというときだけであったから.そのどちらも伴わないこのようなことばを聴くと,彼の口がいささか滑ったのではないかと思わずにはいられなかった.

---口を挟むようで悪いけれど(とはいえ,君はわざわざ僕と話をしているわけで,こういうことは僕達双方にとってよいことにちがいない),正体のわからない不快感,というのが気になるね.君は多分その正体をわかっていて説明する気がないか,そもそも理解する気がないかのどちらかだろう.もし君がほんとうにその正体について考えをめぐらし,それに対峙したのなら,君の口からはもっと別のことばが出てきたんじゃないかと思う.その正体が結局明らかになったかどうかにかかわらずね.

彼は明らかに苛立っているようだった.少し息を吐き,吸って,唇を噛み,首を振りながら再び息を吐く. 目もひとところにじっと注がれるということがなく,少し開くかのように一瞬形を変えかけては元通り閉じる彼の口と同様,彼の感情を映してざわめいていた.

---なるほど,いつもながら鋭いが,とはいえ,かならずしもそれが当たっているわけでもないだろうな.ともかく,どうやら口が過ぎたようだ.

彼はそういうと,…どうやら話の糸口を失ったらしい.途端に地面に穴が空いて,その大きく開いた口が喫茶店ごと我々を飲み込んでいき,建物だけ遥か太古に我々の先祖が住んだかも知れない洞窟のように残る.扉は,開いている.



今回は Anonymous さんにお題を頂きました.いつもありがとうございます.
ほんとうにいつも嬉しいです.
だいたい書いてからかなりの間最後のひと押しを欠いたまま眠っていましたが,
とうとう(安直ながら)陽の目をみさせることにしました.

お題はいつでも募集中ですのでぜひよろしくおねがいします.



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