Monday 5 November 2012

nonsense

意味のない文章,というのも,それが文章として成立している以上,何らかの意味があるはずで,
意味と意義は文脈によってはわざわざ区別することが有益かもしれない.
ともかく,一定の方式に拠って予め定められた意味内容を伝達する手段,
例えば単純な(?)ところでいえば 交通標識などといったものが挙げられようが,
そういったものとは異なり,言語は全く無意味と思われる形式,
意味をなさない と一般に受容される形態をその中に含むことができる.
(信号機でいえば例えば,赤・黄・緑或いは青,例えば全てが点灯していれば
 それは意味をなさず,極めて非日常的で,ディストピアの匂いもするが,
 これは信号機のなかに含まれない範疇にあると考えてよいだろう,
 少なくとも人間の言語がごく自然に無意味さを含みうるのとは対立させることは,
 1つの話し方としては可能だろうと思う.関係ないがディストピアという響きは素敵.)

無論無意味も意味であり,立場によっては沈黙も発話であるが
(とはいえ,この立場にたてば意識があると認識されている間常に我々は発話していることになる),
ともかくこうした 意味をなさない文章というものには昔から興味がある.
それは,意味構造を作るとみなされている文章において意味をなさないというそれ自体の他に,
1つには意味をなさないながらも何らかの印象,感触をそれらが持ちうるということで,
意味を持たないがゆえに他者との共有の難しいこうした感覚を,幼い頃の僕は好んだし,
今まで折に触れてそれらに目を注ぎ,大事に扱ってきた(つもりである).
このことについて,特に僕に印象を与えているのは外国語として英語を学び始めた頃に始まる1つの考えで,
それはつまり,母語話者の感覚が最も非母語話者のそれに対して優越性を示すのは,
意味においてではなくむしろこうした無意味に対する感触だろうというものだ.
外国語習得において習得とされるのは当然意味のある文章の意味を掴むことであり,
骨格の見えない,"非文法的文" より意味伝達についてはなお手前にある塊を彩るのは,
外国語としてそれらを学ぶ人間に姿を表してくれる大局的で有機的な繋がりではなく,
それぞれの粒の表面の毛羽立ちや,それらが思い起こさせる色々なものの翳といったもので,
あるいは秋の空を見上げた時に心の中を様々なものが去来するその感じに,
秋の空が惹き起こすのは外に向いた五感の感覚や,それを発端とする感傷であり,
今考えているのはそれとは違う言語的な感覚であるということ以外はよく似ているのかもしれない.
 こうした微細で不確かな感覚は,もちろん普通の文章についてもあるし,
言葉に手垢がつく,とか ,
特定の思い出や特定の人の特定の言葉の使い方が文章に何らかの色を差して見える,
というときに我々に対して現れているものは,
どちらかというとこの "不確かな" 感覚を惹き起こす者たちの側にあるのだとおもうけれども,
普通の意味伝達において多くの部分を占めるのはやはり,
もっと大きな意味的構造や,発話の場合は発話者の performance だろうとおもう.
その先にあるもっと濃密な感覚に僕は惹かれてきたし,
母語以外の言語について,そのことをより知りたいとも思ってきたのだった.


話は変わってここはあとがきのようなもので,
今僕は, 第三者的に意味のつかみにくいような文章になっていることを予期しながら,
それでも楽しんで文章を綴っている.
脳内の思考というのは文章化されたものとは違ったフォーマットを持っているが,
それをあまり文章の形に変換することに注意や労力を払わないまま流していくこの感覚は,
或いはそもそも脳内に流れている思考に対する感覚は,どの程度共有されうるものなのだろう.

1 comment:

  1. 一番最初の「意味のない文章」とそれ以降の無意味とか意味をなさないの
    意味が違うのは深刻な誤解を招くかもしれませんね.最初のは「あはい」程度の意味で使われる「意味のなさ」,それ以降はまさに"正しく"意味を解釈することが困難な類の「無意味さ」です.

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