Sunday 15 January 2012

bible #3

これはほんとに寝る前のメモ.
文体がぐちゃぐちゃやし,内容も,すべて正しいと思ってるわけじゃなくて,
今思いついた考えの筋道のポイントを飛び石のように置いて行っているだけ.
この筋道については自分でも吟味が必要だと思うし,
単純に去来した考えの一つであることを断っておく.


申命記とか読んでると,これはもはや宗教と言うより,単純な行動規範・刑法,そんな感じ.
実際まあ,当たり前といえば当たり前.
しかし律法や十戒,神と人間の「契約」というのは繰り返しでてくるもの.
そしてこれは,申命記などを参照しつつ考えると,
神が神として君臨していると言うよりは,社会規範の拠り所として sur lequel 仮託がなされる,
抽象的な「絶対者」 としての存在に過ぎないのではないか,
という気がしてくる.今のイメージとしては,旧約聖書は宗教と言うよりは,
by which ユダヤ人の間に蓄積された伝承,法律の類を,神という絶対者との契約,という形にすることで
非常に強い backbone を持たせたその総体(関係代名詞の使い心地は抜群,眠くてこんな書き方しか出来ず申し訳ない).
キリスト教になると,(この発想はイエスの発明ではないかとちょっと疑っているのだが),
全面に出されるものとしての死後の世界,或いは神の国における命,復活,再生,
もしくは非常に個人主義的な形で語られる信仰(「あなたの」信仰はあなたを救うが,
「あなたとあなたの子孫が末永く繁栄するように」という形は新約にはあまりない気がする)が生じ,
より宗教らしくなってくる,という印象がある.
特に,おそらく個々人の belief が direct にその人に恵みをもたらす,というのは新約的で,
「共同体から汚れを除かねば」というような発想,先祖との契約,
即ち given なものとしての共同体とそれが契約する絶対者=神(≒規範),に見られる
旧約的な発想とは一線を画しているといえるかもしれない.

一方,創世記を見たりしていると,ここは伝承,神話的側面が強く,
一般に見られる形としての神話,であった信仰が,
アブラハムなどその辺を通じて選民思想,或いは民族単位での契約という形と結びつくことで,
社会規範などがその上に投写され,それらが結びついて新たな「契約」を創りだすことによって,
ユダヤ教はたんなる神話から民族宗教へその様相を変えていった.
ここに,イエスが登場することによって,ユダヤ教は再び,社会規範から
それ以上のものに対する信仰
(死後の命,というような,価値∞のものが与えられるのもその特徴かもしれない.
ユダヤの神は,繁栄や祝福といったものを与えるが,余り不定形なものは与えない印象
{ちょっとここはよくわからない}.さらに「惜しみなく奪う」.)
に姿を変えていった,といえるかもしれない.
ある意味ではこうして,ユダヤ教とキリスト教は全く異なる類型としての宗教と捉えられる,かも.

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