Sunday 22 January 2012

memo---bible

純粋なメモ.まあ,「こんな一節があるんやー」くらいには役に立つかもしれませんが.

終わりの日に種の神殿の山は,山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる.もろもろの民は大河のようにそこに向かい多くの国々が来て言う.「主の山に上り,ヤコブの神の家に行こう.主はわたしたちに道を示される.私たちはその道を進もう.」と.…(Micah,4:1-2)
わたしは一人の聖なる者が語るのを聞いた.またもう一人の聖なる者がその語っている者に言った.「この幻,即ち,日ごとの供え物が廃され,罪が荒廃をもたらし,聖所と万軍とが踏みにじられるというこの幻の出来事は,いつまで続くのか.」彼は続けた.「日がくれ,夜の明けること二千三百回に及んで,聖所はあるべき状態に戻る.」私ダニエルは,この幻を見ながら,意味を知りたいと願っていた.その時,見よ,わたしに向かって勇士のような姿が現れた.すると,ウライ川から人の声がしてこう言った.「ガブリエル,幻をこの人に説明せよ.」彼がわたしの立っているところに近づいてきたので,わたしは恐れてひれ伏した.彼はわたしに言った.「人の子よ,この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい.」(Daniel,8:13-17)
新共同訳の付録で,旧約聖書のなかで「終わりの時」に触れているとして挙げられている二箇所.
付録に挙げられているのはこれだけで,これはやっぱり「イスラエルの奪還」とかそういう雰囲気.
どうなんだろうなぁ,やっぱり新約と旧約の間で世界観にある程度の断絶があるように思うんだけれど.

 あとこれも今日発覚したびっくりの事実.前から気にはなってたんだけど.


そういえば,
神様が本当に全知全能なら,その結果を最後までありありと思い浮かべられる天地創造を,
どうしてわざわざ行ったんだろう
って話は twitter でだいぶ前にしたっけ……なぁ.長いこと考えてるんだけど.
宗教上,そうやって疑問があって然るべき所には,
その宗教の枠内で何らかの説明があたえられてるのではないかなぁ,とは思う.
1つは創造物を見て神が「良しとされた」というように,満足感というのはあるかもしれない.
他にも色々ある.
聖書でちょくちょく引っかかる「(~~なったのは,)……という預言が,成就されるためである」というフレーズ.
要するに,予め「預言」が与えられてて……これの主体がよくわからない……,
神から預言が来てるパターンもあった気はするけど,いずれにせよ,
それが行われてるのが世の中,みたいな.
わざわざ「神がこうした」のではなくて,「預言が成就される」 という言い方は面白い.
後もう一つは,神様が文字通りの「全知全能」ではない,というパターン.
特に旧約はそういう理解もありうるかと思う.早い話が,楽園追放は予定の中にあったのか,という.

そろそろ眠いので,文章読み込んだり箇所探したりそういう手間はかけず,
この↑の部分は特に,単なる妄言と思っていただければ.


なんか新約聖書旧約聖書のことばっかり書いてると僕自身の宗教観を誤解されそうなので
その辺は一度(珍しく読者を意識して)書かないといけないかなぁ.
聖書に対する興味は,一つのテクストとして,というのと,
宗教上どうしてこういう世界観 / 設定が出来上がったのか,というところが大きいと思う.
聖書に対して僕が「なぜ」を問うのは,そういう意味合いが強い.
そういう意味では最後の部分は僕の「聖書の読み方」をかなり反映しているといっていいかも.
それが神であろうと,人であろうと,精霊であろうと,事実であろうと単なる信仰上のものに過ぎなかろうと,
少なくともこの現存するテクストとしての聖書は,ある主体が創りだしたものなわけだ.
それが,どうしてこういう内容として成立したのか.
これが,僕の聖書に対する興味の,少なくとも大きな一側面.

xenoblade ost #nowlisteningto

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