Saturday 18 February 2012

signs

記号論,というのは,それ自体を真剣に学ぶのではなく,
適当にそれらしい形で援用して評論っぽいものを書くのはやりやすいらしい.
それはともかく,言葉は,その指し示す内容自体を含んでるんじゃなくて,
指し示す内容をそれ以外の部分から「切る」,というような思考の流れがある.
それはしばしば,連続的なまわりの世界を不連続な枠に組み込んで捉える,というような考えにもなる.
そうして色んな枠を知ることができる,というのは外国語学習の1つの大きな楽しみではある.
で,この考え自体はなかなか分かりやすいし,アイデアとしても素敵だと思う.
ただ昨晩また違う aspect をおもいついたので.寝ながら.
とかいいつつ,いま書きながら非常にまとまりのない上に筋道すら通っていないことが明らかになって
結局何も書いてないのと同じ事になりそうである.
そしていくつか論理が破綻してる気もするがそもそも論理のあるような文章ではない.
/*更に追記(書き終わった後)
さらに,
なんと,
寝る前には一行目のような話から考え始めてたのだけれど,
結局どうも記号とかと全く関係のない話になったらしい.もはや意味がわからぬ.
書いてることもいちいち自明か適当かやし.ぶつぶつ.
寝る前の考えはこういうことがしばしばあって,
その時には今は忘れた別のパーツがあって全体が整っていたのか,
それとも単純に誤認してたのか今ひとつ詳らかでない.
*/

いうて,話し言葉はそんなにはっきり切ったりしませんよね,みたいなはなし.

脳内で外界を捉える時にそもそも言葉を介すから,どうしてもそこで一旦世界が分画されてる,
というのは1つ多分重要な観点で,とはいえ外界の受容に関してはともかく,
内的なものについてはそもそも言語化すらされないことが多いのではないか.
「ああ,切ないな」とかひとりごちたところで,別に自分の感情が切ないという言葉に集約されたりは
あまりしないだろう. ここは上の文よりは後にあったほうがいい気がするけど
かと言って最後に書くとそれはそれでちょっと変,という微妙な立ち位置.
そもそも文章全体として整っていないのだろう.

まず人の話を聞くときは,その人の表情,口調,そんなもの全部が,細かい彩りを添えてくれる.
多分その部分が伝達の上で担う部分は多いだろう.
例えばの話,「これアレ.ほんま,なんちゅうか,ほんまアレやわーーー」という,
実質何も言ってないような文章にしたところで,
僕が仏語の辞書片手ににやにやしながら呟くのを聞けば,友人は大体のところは理解してくれるだろう.
それから話し手にしても, つねに聞き手がどう受け取ってるか測りながら,
言葉を選び,或いは言い換え,さらに聞き手の反応に対して反応を返し,といったことをする.
……………

で,まあ,「大きかってん!」「ふむふむ」「いや,まあ,大きいいうてもそんなではなかったけど」
みたいに,大抵の場合ことばが世界を切るというよりは,
相手と通じ合える「切りどころ」を探る作業が行われてるといってもいいかもしれない.

………
そして,ことばの形態としては,書き言葉より話し言葉がより原初的なわけで,
「ことば」 のありようを考えるなら,後者をもっと重視すべきじゃないかなぁみたいな.
或いは2つは,捉え方や考えたい内容によっては,
全く別のものと考えて議論を進めたほうがいいのかもしれない.


書いててアホらしくなったからやめます.自分で書いてて一向に気に食わない.
おかしいなぁ昨晩は結構おもしろいこと考えてたはずなんやけどなぁ

2 comments:

  1. ほうほう
    これ読んで改めて考えると僕が考えてたやり取りの形は多少モデル化が過ぎた気もするなあ

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  2. どうなんですかね….一方,「可能な切り取り方」が言語によって不連続的に枠づけられている(?)のも確かという気もします(ちょっと僕が文脈を読めてないかも?).
    コメントありがとうございます.

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